異世界アントワールには、今宵も神に愛された者の下に落ち人が贈られる。
落ち人――愛されし者の為、神に選ばれた運命のツガイ。
彼らは、アントワールに身体を定着させる為の契りを交わさなければ死ぬことになる。
これはアントワールの人間ならば、人族獣人魔人問わず誰でも知っている常識だった。
落ち人達は、はじめ誰しも夢かうつつかと戸惑うものの一度ツガえば受け入れざるを得ない。
その抗い難い愛しさに、快楽に落ちていく、だから『落ち人』というのだと誰かが言った。
神の定めた運命からは逃れられない、落ちればもう抜け出す事などできない。
それが神に選ばれた者の、ツガイになるという事――
「――え? なんて? 」
ほんの数時間前まで、日本という平和な国で、平凡な毎日を送っていた筈のOL。
上山希美子は只今その平和とは程遠い状況にあった。
「今すぐ俺に首を刎ねられて死ぬか、狼にブチ犯されるか、時間をかけてこの世界の魔力に蝕まれて野垂れ死ぬか、好きなのを選べ」
ここはどうやら森の中。
土の地面に裸足でへたり込んでいる希美子に向かって、剣の切っ先を突き付けているのは獣人と思しき青年だ。
眉間に深い皺を刻み、鋭い眼差しで油断無く希美子を見下ろす青年の頭には犬――いや、狼のような黒い耳が存在していた。
(ど、どうしてこうなった……)
希美子はこうなるまでの事を思い出していた――
――――
――――――
「え、異世界……ですか? 」
「そうよ! 異世界アントワールで狼獣人の男の子とちょめちょめしない? 」
(……ちょめちょめって……)
仕事の帰り、駅から帰る道すがら大きなクラクションの音を聞いたことまでは覚えていた希美子だったが、この、雲の上のような空間に来るまでの事を何も思い出せずにいた。
突然の事に呆然としていた希美子に自称女神を名乗る女性は、希美子が死んだ事実と、今後の身の振り方について説明し始めたのだ。
希美子は残念ながら死んだので、次の世界はこの女神が支配……いや、運営?しているアントワールという場所に来てみないかと言うのだ。
「いえ、あの……一応私も……あの世界でやり残した事が、ですね……? 」
「あら? 何か未練のある事を覚えている? 普通は死んだ時に忘れるものなのだけれど……? 」
「え……? 」
希美子は瞬時にこの女神が何か恐ろしい事を言った、と、思った。
そして必死に思い出そうとする。
自分の家族の事、友人の事、恋人……の、事。
「な……え……え?――うそ……」
何かを思い出そうとすると思考が真っ白になったかのように思い出せない。
(嘘でしょ……)
思わず責めるような目で女神を見た。
「そんな悲しそうな顔をしないで? 普通ならこのまま貴女は大切な物どころか全てを忘れて転生するのよ? 」
(――そう、だろうけど……! でも――)
そこまで考えて、また、頭が白くなる。
(こんな――どうして……? )
きっと、忘れたくなかった思い出だってあったはずなのに、どうしても思い出せない。
希美子は焦りと不安と寂しさと悲しさで混乱してきた。
「え?! あっ! うそ?! ちょっと泣かないで?! えぇ?! 」
何も考えられない、何も思い出せない事が怖くなった希美子は、呆然とした表情のままいつの間にか涙を流していた。
「だいじょっ大丈夫よ! 何もかも思い出せない訳じゃないわ! ほら! アナタが好きだったゲームとか――ああ! ほら小説とか! 」
言われて希美子は、仕事の合間や寝る前、休みの日に読み漁っていた小説を思い出した。
たくさんの恋愛小説からファンタジー小説、大好きだった作品は全て思い出せている気がする。
――そうだ、異世界へ行くものも沢山あった。
よく、友人に冗談めかして
『死んだら異世界に行くからその勉強よ』
なんて痛い事を言いながら、四六時中小説を読んでた気がする。
(ああ――うん、思い出した。友人の顔は霞みがかったような思い出せないけれど、ひたすらケモ耳もふもふの獣人さんを検索して読み漁っていた記憶はしっかりとある……あるのだが……)
「こんな事しか思い出せない人生歩んでたかと思うとまた涙が出てきそうなんですけど……」
「えええっ?! 」
再び希美子は項垂れた。
(だってそうでしょう……結構な年月生きて来たはずなのに、思い出せる事がオタ活の内容だけって……)
「顔も思い出せない両親に面目が立ちません……」
「いや、それは貴女の問題って言うか! 逆に言うとね、そのオタ活? の内容はこれから私の世界に来てもらうなら必要なものだから残しておいて貰ったのよ! 貴女は悪くないから! 」
そして語られる女神様のご都合。
この女神はお気に入りの子に『ツガイ』を送る慈善事業をしているらしい。
女神が送った人間は『落ち人』と呼ばれ、女神からの使いとして有り難がられる存在だからそうそう酷い目にあう事もないという。
しかも、この度ツガイを送る先の男子は狼の獣人さんで、希美子の性癖度直球のハズ! ……らしい。
「色んな意味で相性は抜群だし! 魔力定着の為に即ちょめちょめ出来るんだから! 異世界の、イケメンと! 萌えない?! 」
どやっ! と、得意げな女神だったが、希美子は何か聞き捨てならない事を聞いた気がした。
「え、ちょっと待って? 『即ちょめちょめ』って?! 」
「即行でツガイとエッチしないと、あの世界に魔力が馴染まずに死ぬ事になるからね! ちなみにアントワールの子達は知ってる事だから! 何を置いても即合体出来るわよ! 」
「いやえ、……死?ちょ、待っ……?!」
「私、あの子には幸せになって欲しいのよ……」なんて物思いに耽る女神に希美子はそれどころではない。
(え、ようは、そのツガイとエッチしないと死ぬってこと?! また?! )
混乱の極致にある希美子を構わず、女神はマイペースに話を続けていく。
「あとね、コレは本当に大事な事なのだけど、確認していいかしら……? 」
そう言って憂うように目を伏せて言う女神に、何か大事な事なのかと察した希美子は色々と言いたい事を胸に押し込んで、最大限警戒しながら一言、「何……? 」と呟くように言った。
「……あなた……獣姦は、イケる……? 」
女神との記憶はここまでだ。
気付いた時、唇に何か柔らかいモノが触れていた気がしたけれど、目を開いたのと同時に何か強い力で突き飛ばされて――気が付けば目の前の男に剣を突きつけられていた。
「おい、さっさとしろ」
低い声がふたたび降ってきて、目の前の現実に引き戻される。
剣を突き付けられるという非現実的な状況ではあったが、希美子がへたり込んでいる土の地面と、頰を撫でる森の中特有の湿った空気が、嫌でもこれが現実だと突き付けてくる。
突然死んだと聞かされて、獣人とちょめちょめしないかと聞かれて、どう返事したのかは思い出せないが――きっとイエスと言ったのだろうと希美子は思った。
そして、あらためて目の前の青年を見てみる。
絶世の美男子という訳でも無いが、けっして不細工という訳でもない。
いや、端的に言ってイケメンである。
年齢は二十代半ばから後半くらいだろうか。眉間には深い皺が刻まれ、鋭い瞳が希美子を捉えているが、彼女の胸は先程から高鳴りっぱなしである。
(か……カッコいい……)
短髪と言うほどではないが短い黒髪の中から伸びた獣耳。
ゆっくりと後ろで揺れているフサフサの大きな尻尾。
(もふもふ……)
こちらに伸びる腕は、実戦で培われたのであろう筋肉で筋張った線が入っていて、華奢とは少し程遠い。
その姿は、希美子がファンタジー小説でよく読む冒険者然としていた。
(この、この人が……女神様が言う通りなら、私の『ツガイ』なんだよね……? この、イケメンが……!! )
「おい、寝てんのか? 」
剣の腹で頬っぺたをペチペチされた。
「今すぐ俺に首を刎ねられて死ぬか」
――ぺち。
「狼にブチ犯されるか」
――ぺちぺち。
「時間をかけてこの世界の魔力に蝕まれて野垂れ死ぬか、好きなのを選べと言っている」
「あ、『狼にブチ犯される』でお願いします」
「…………あ? 」
「え? 」
二人の間に沈黙が降りた。
先程から希美子の頰をペチペチしていた剣も、ペチペチぺ……くらいの所で固まっている。
「え、だから、『狼にブチ犯される』を希望します」
「意味わかってんのか? 狼獣人じゃねぇ、『狼』だぞ? 」
空気を読まず、普通に三択の中から己の希望するものを挙げる希美子に、目の前の獣人は先程よりも目付きを凶悪に据わらせて言った。
一方、希美子は女神が説明した事を思い出していた。そして色々と照合していく。
「ん? さすがに野性の狼さんは病気とかちょっと怖いのですけど……違いますよね? んっと……私は『落ち人』ってヤツで、女神様から説明を受けてから此処にきています。女神様は、私の『ツガイ』の所に送ると、そう、言ってました。見たところ此処にはお兄さんしか居ない……って事はですよ? 」
「…………ちっ」
「舌打ち?! え、あの、あなたが私のツガイさん……で間違いございませんよねぇ?! 」
希美子はそう聞いたが、男はそれに対して沈黙した。
ただ、油断の無い眼差しだけが希美子に突き刺さる。
「……黙秘ですか。話を戻しますけど、お兄さんの言う『狼』って、自分が『完全獣化』した時の姿って事なんでしょ? 」
「っ……?! 」
なんだこの落ち人は、と狼に獣人の男『ジークヴァルト』は思った。
ジークヴァルトは『落ち人』を見るのは初めてでは無い、彼の亡き兄もまた、落ち人を女神より賜った『幸運な男』の一人だったからだ。
この世界の住人にとって、女神が異世界より使わせた『落ち人』とは『幸運』の象徴であり、大切にすべき対象であった。
落ち人に関する伝聞は全て、落ち人のおかげで豊かになっただとか、女神の祝福が増えただとか言うものだった。
しかし、実際に兄の下へ来た落ち人がもたらした物は『幸福』とは真逆のものだった。
だからジークヴァルトは行動したのだ。
女神より賜った『落ち人』と言う『ツガイ』候補に……兄の様に正常な判断が出来なくなる前に。
この女を『殺す』か『見捨てる』か決めようとしたのだ。
なのに。
「私、自分で言うのもなんですけど結構ガチめの獣人萌えあるんで……お兄さんがお相手なら、その、まんま狼みたいな感じの獣化も、赤ずきんちゃんに出てきそうな二足歩行型狼さんでも全然イケます、むしろバチコイ! 開かれよ新しい扉! 怖いのは最初だけ! さあ来……痛?! 」
気付くとジークヴァルトは『落ち人』の頭を平手ペシンッと叩いていた。
「お前は……アホそうだな? 」
「え、それ真顔で聞く事かな?! 」
たいして痛くなかったとは言え、叩かれた上に浴びせられる暴言に思わず希美子はツッこんだ。
しかし、それに対して目の前の男は希美子をジッと見つめた後、おもむろに深く、それはもう深ぁくため息を吐くと、剣を鞘に仕舞った。
希美子は一安心したと同時に、その一連の仕草にすらちょっと萌えてしまった。
(え、何? クール系獣人さんなの? 不機嫌さんなの? )
「おい、立て」
「え? あ、はいっ――――あれ? 」
どうやら形状記憶されているらしい眉間の皺はそのままに、イケメン獣人からご命令されたので希美子は慌てて立とうとした。
しかし――
「すみません」
「……あ? 」
「腰が抜けているみたいです……って、また舌打ち?! 」
希美子が言い終わるよりも先に舌打ちしたジークヴァルトは、彼女に大股で近づくとおもむろに屈んで――
「いやちょっと?! そこはお姫様だっこじゃない?! 俵担ぎってどうなの?! 」
「うるせぇ、行くぞ」
「どこに?! 」
そこからは何を聞いても「うるせぇ」だの「黙れ」だの「後にしろ」だのと言われて希美子が連れてこられた先にあったのは、一軒のログハウスだった。
森の少し拓けたその場所に、大きなログハウスが建っている。
「え、もしかしてお兄さんの家……? 」
「他に何があんだ」
鍵らしい鍵もなくジークヴァルトは扉を開いて家の中へ進んでいくと、二階の奥の部屋に入った。
そして、希美子が投げられた先は――
「え、は?! ベッド?! 」
「いちいちうるせぇ女だな、始めるぞ」
「え? お?! ちょ……んん?! 」
希美子が気付いた時には、不機嫌そうではあるものの、整った男の顔が近づいて来て――唇が重なっていた。
(え……? なに、これ……なんか……)
希美子は生まれて初めて感じる何かに戸惑っていた。
そしてそんな事は御構い無しとばかりに、目の前の男は事を進めていく。
ベッドに投げ出された勢いで横になっていた希美子の上に乱暴に覆いかぶさるも、触れる唇は――まるで何かを確かめるみたいに、なぞるような優しい触り方をしてくる。
その触れた箇所からジリジリと甘い痺れが全身に広がるような感覚に、身体の力が抜けていった、
(こ、この人の……くちびる……きもちぃ……)
するりと首の後ろから後頭部に差し込まれた大きな手も、まるで愛撫のような柔らかさで希美子の頭を支えている。
それなのに凄く安定していて、逆に彼の力強さを伝えてくるから――希美子は、安心しきったように完全に身体を預けてしまう。
柔らかな口付けは、そのまま、目蓋に落とされ、頰にコメカミに、と続き、おデコに落とされた時――キュンッとお腹に電流が走ったみたいになって思わず希美子はビクッとしてしまった。
「…………」
彼はそれには何も言わず、再びコメカミに優しく口付け、頰をなぞり――最後に唇へゆっくりと合わせるみたいな、感触を楽しむようなキスをして、顔を離した。
「随分と大人しくなったじゃねぇか? 」
「……だ……って……」
こんなキスをしておいて狡いと、希美子は思った。すでに希美子の身体はぐにゃぐにゃに蕩けてしまっている。
「お前、名は? 」
「……希美子」
希美子の少し浮かされていた頭を優しく下ろすと、彼は一言「そうか」と呟いて――。
「希美子、俺はお前を抱く」
そう、宣言した。