『――やっと、見つけたぞ 』
それは突然のことだった。
ラウロのキスで夢見心地になっていた優香の首筋を、細かい砂の塊が撫でつけたような不快感。
『愛しい落ち人よ、我のモノとナレ―― 』
その声がソレを言い終わる前に、ラウロが優香から瞬時に離れた。が、反動でラウロは自身の大きくなった身体を、湯船に叩きつけるようにして倒れ込んだのでしぶきが勢いよく立ち上がり、飛び散る。
「ラウロさん?! 」
「来るな優香!! 」
ビクッと、反射的にラウロの言葉で動きを止めた優香はそのかわり視線を忙しなく動かし、頭を回転させる。
(何――何が……こえ……そう、さっき声が聞こえてそれでラウロさんが突然―― )
――じゃあ、その声は……一体誰の声……?
あたりに人らしい気配はない、しかし優香は先ほど感じた首筋を撫でる感覚を思い出し、とっさに首を手で庇うようにした。
『我が眷属よ、その身体を差し出せ――ソレならば我が依代としても問題無さそうだ。前の男は壊れてしまったからのぅ 』
「………… 」
(『眷属』……? 依代ってどう言う……それに『前の男』……って……? )
突然の非現実に優香は少しパニック状態だった。与えられた情報の全てを拾おうとしているが、何一つ理解できなかった。
人の居るような気配は無いのに不気味な声だけがする。それに、先ほどからラウロが浴槽の中に座っている状態から動かない事が優香は気になっていた。
ずっと下を見つめたまま、その表情を見る事も叶わない。
「ラウロさん……」
ぴくり――と、ラウロの肩が小さく揺れたその直後、不気味な声とは別に口を開かぬまま座り込んでいたラウロの声が響き渡った。
『――あの男、とは……「隊長」のことか? 』
『「あの男」と言ったら「あの男」の事よ、我の依代にもなれぬ眷属が何と呼ばれていたかなど知らぬ。幸運な事に「落ち人」を手に入れたと言うのに、その依代は我の力に耐えられなんだ。落ち人という絶好の贄を我に差し出す事も出来なかった上に、精神に亀裂が入ったせいで淫魔の癖にこの場所にも来れなくなった半端者よ 』
不気味な声が言い終える前に幕一枚隔てた向こう側のような距離感で重く響く破裂音が響き渡った。
ビシリと音を立て何もなかった空間にヒビのような亀裂が入ったのを見た優香は、さすがにパニックを起こしかけた。
しかし、それと丁度同時のタイミング。
『ラッキー! ここ、使わせて貰うよー! 』
ただのヒビだったソコが、パンッと音を立てて破裂したかと思うと、中から一匹の――黒豹が出てきて優香が腰を抜かす。
「きゃあぁ?!?!! 」
『あ、優香ちゃん、わたし私――茜だよ! 』
破裂した空間からシュタリと降り立った黒豹は、伏せの姿勢を取ると足元から光の粒に包まれていく。
「え……え?……ええ?!!?! 」
身体全体を光が包み終えた頃、強く発光した。
暫くして光の収束を感じ取った優香が目を開けるとそこには――
「――き、綺麗…… 」
細長い手足、透き通った肌、艶やかで長い黒髪、瞬きするたびに風が起こりそうな長くて密度の高いまつ毛、形がよく吸い付きたくなるような柔らかな唇。
美女だった。
そこには、優香が見た事もないような絶世の美女が立っていた。
「あははっ『魔王の落ち人の特典』ってやつでね! でも嬉しいなぁ、ありがとう! 」
屈託なく笑いかける美女はしかし――
「な、何か着てくださいっ?! 」
素っ裸だった。
「あ、そうそう。優香ちゃんもね、コレどうぞ 」
茜を名乗る美女が、何もない空間から黒いバスローブのようなものを取り出すと、優香に渡した。
ちなみに優香さん、情事の諸々はかけ流しのお湯によって……かけ流されている。
現在は綺麗な優香さんである。
茜はバスローブを着終えた優香を浴室の隅にあるソファに誘導した。
「今ラウロめちゃくちゃキレててね、なんか私が手を出しにくい雰囲気だったから取り敢えずこっち来たんだけどさ 」
「え……ラウロさんが? 」
「うん、精神世界の方でちょっとね。異空間みたいなものだと思ってくれていいよ、あるいは『夢の中』とか 」
「えっ…… 」
夢の中という単語に優香は即座に反応して、ラウロが優香に見せた精神世界を思い出す。それだけならよかったのだが、一緒に思い出してしまった。
昨日、ラウロとしたアレコレの事を。
「ん? あれ……え……?優香ちゃーん? 」
顔を真っ赤にして固まった優香の目の前で、手を振る茜。
「はっ! ご、ごめんなさい、えっと…… 」
「うん、とりあえずラウロが怖いから優香ちゃん止めてね! 」
「え…… 」
優香の返事を聞くよりも前に、二人を黒い霧が覆った。
(これ……ラウロも出してた―― )
目の前を覆っていた霧が晴れた時、優香の目に飛び込んできたのは――
「グッ……貴様! 何故、我に平伏せぬ!! 我こそは夢魔の始祖―― 」
「我こそはって本当に言う人私リアルで初めて見た! 」
紫の霧が立ち込めた、暗い異空間の中で何やら口上を唱えようとしていたらしいのは、先ほどのラウロに似た姿をした『夢魔』だった。
しかし、その姿は酷く老いていて醜悪。夢魔の放つ紫の霧も、肌に触れると何か湿り気を帯びていて細かい砂のようなザラつきがあり不快感を与えてくる。
そんな自称『夢魔の始祖』は、己の口上を邪魔した茜に気が付いて、不愉快そうに鼻を鳴らしたが、隣の優香に気がつくと目をギラつかせて息を荒くしはじめた。
「その娘だ! 淫魔に遣わされた落ち人! ソレは我のものだ!! 私に寄越―― 」
全て言い終わる前に、黒髪の男が割って入る。
艶やかな黒髪を後ろに撫でつけ、匂い立つような色気を纏ったインキュバス。
「その、問答自体が不愉快だからね。一度しか言わないから、よく聞いてよ 」
「ッ?! 」
────ザンッ
音と共に張り巡らされたのは、無数の銀糸。
それは例外なく『夢魔の始祖 』に絡みついていた。
「な……な、な―― 」
「まず、優香はものじゃないよね? 」
手近な糸を、骨張った女好きする指でクンッと引くと、醜い夢魔の腕が一本ボトリと音を立てて落ちた。
一拍置いて響き渡った、黒板に爪を立てたような不愉快な音は『夢魔』の悲鳴。
「ただ、精神世界に長く居るだけの老害が、優香を欲しがること自体が不快だな 」
今度は、ちょうど彼の目の高さにあった糸に人差し指をかけた。
後ろにいる優香は、目の前の惨状に衝撃を受けていて声も出せずにいる。
しかし彼は、ラウロはその事に気付かなかった。