32.ジークヴァルト・アードルング

 イスターレの夕焼け空がその表情を変化させていた。

 太陽はその姿を隠し、今はその輝きの名残だけが余韻を残して大空に星がまたたきはじめている。

 あの後、目を覚ました希美子はひとしきり自分の仕出かした事に身悶えて恥ずかしがって涙目になっていたが、魔力付与を口付けで行った場合はどうやら催淫効果があるようだからとジークヴァルトに言葉少ないながらもひたすら慰められた。

 まあジークヴァルトのしたことと言えば、シロちゃんの背中に頭を突っ伏して身悶えている希美子の頭を撫でていただけだが。

『夜が、はじまるわ……』

 アンデッド達が宴を始めるのには格好の舞台が出来上がりつつあった。

 落ち着きを取り戻した希美子は、シロちゃんのそんな言葉を聞いてユリウスの言っていた事を思い出す。

 ――コレは明らかに人為的な物です。

 今更ながら、この混乱が計算され尽くされたものなのだと思い知らされる。

「……様子がおかしい」

「え……」

 ジークヴァルトの言葉に希美子が何か言う前に、彼は結界を希美子に掛ける。時空結界では声が聞こえなくなる為、不測の事態に反応が遅れかねないと考えた。

『愛し子……これは……』

「ああ、どうやら敵は俺が来ることがわかっていたらしいな」

(え……何、何が起こっているの……?)

 足手纏いに他ならない自覚のある希美子は、声を出す事なくただその瞳を不安に揺らした。ジークヴァルトの掌が自身の張った結界をすり抜けて希美子の頭に乗せられる。

 ただ、希美子を安心させるように優しく撫でられていた。

 ただ、その瞳は目の前に広がる大自然へと向けられたままだったが。

「――チッ、数を数えるのもアホらしいな」

『そうね、数えている暇があるならやってしまいましょう。私が焼き払う?』

「お前にはレイアでの仕事が残っている、俺に聖属性付与だけしろ」

 わかったわと、それだけ言うと聖白竜――シロの身体が輝きを帯びはじめる。

「――ッジークあれ!」

 希美子が目視出来る位置に、巨大な飛来生物が姿を現した。

 シロの身体の輝きと共に、ジークヴァルトと希美子の身も白い光のヴェールに包まれた。

 ジークヴァルトは亜空間に大きな割れ目を出現させると、希美子の身長よりもありそうな巨大な鉈を取り出して――勢い付けて飛来生物に投げつけた。

 ――ギャアアアァァァァァア

 夜の帳を引き裂く様な慟哭。

 回転を付けて投げられたその凶器は、目標の片羽を真っ二つに切り裂いた。

 片羽を失い、バランスを崩したまま浮力を無くし、堕ちていく。

「え……えぇ……?」

 希美子はさすがに唖然とした。

 いや、今のアレが例の『死竜』では無いのかと。

 皆が恐れ、街が大混乱に陥ったきっかけ――この原因がいとも容易く屠られた。まるで羽虫を払うかのように、一瞬で。

 こんな、死ぬかも知れないと言っていた人間とは思えなかった。

 圧倒的――――

(みんな、知ってたんだ……だから……)

 ギルド長もクリストハルトも、ジークヴァルトのこの圧倒的な強さを知っているからジークヴァルトを頼ったのだと、希美子は思った。

 目の前で、自分の何倍も大きいであろう生き物に一撃であそこまでダメージを与えて見せたジークヴァルトに、希美子が思わず安堵しかけた瞬間――

 巨大なエネルギー体が希美子達の前で爆発を起こした。

 ジークヴァルトは身構える余裕もなかった希美子を支えながら結界に阻まれたエネルギー体の発射された方角を不機嫌そうに睨みつけていた。

「おいシロ、あれは何だ?」

『……レイスの魂、その残骸を感じる……でもアレは――』

 死竜が墜落した辺り、その上空を人影が一つ浮遊していた。

 希美子はジークヴァルトの腕に支えられながら、彼の視線の先にあるその人影を見て驚愕した。

「お……狼、獣人……?」

「………………」

 二人の目の前には、完全獣化した狼獣人の姿があった。

「――はじめまして、A級冒険者ジーク」

 狼獣人の姿をしたソレは、ジークヴァルト達に話しかけていたが、ジークはただ視線を注意深く離さないだけで返事はせずに、シロの周りの結界を重ね掛けしていく。

「いいえ、この身体は貴方のことを知っていましたよ……そして酷く恨んでいた」

 その言葉に少し反応を示したのは希美子だった。目の前の存在がジークを知っているだけならばA級冒険者なら知られていてもおかしく無いのではと思ったからだ。

 しかし、恨みというと話は変わってくる。

 ジークヴァルトは口も態度も悪いが、そうそう人に恨まれるような事をすると思えない。それにレイアで会った人々は皆、ジークに少なからず好意的だった。

 そして何より気になる言い方だった。

(『この身体』……?)

 目の前の完全獣化していた狼獣人がその姿を人族のそれと近いものに変えていく。

 狼の耳と尻尾だけを残した、艶のない長めの髪が風に靡いている。

 この世界の人間に馴染みのある獣人族の青年の姿だった。

「二日前、同族の完全獣化を感じました……そして私は確信したんです、貴方が生きていると!」

(……感じ取る……?)

『獣人族がその身を完全獣化させると言うのは、その殆どが緊急事態を示してるわ。同族には群れの仲間が完全獣化した事を感じ取る本能が備わっているのよ』

「………………」

 シロが希美子の疑問を感じ取り説明してくれたが、ジークヴァルトは希美子の視線を受けても黙って前を向いていた。

「――ジークヴァルト・アードルング!この身体の同族が居るとしたら、もう貴方しかいないんですよ!」

 あっはははは!と、突如狼獣人の青年が心底楽しいとばかりに笑い出した。

「他の、黒狼獣人達はみぃんな僕が殺しましたからねぇ!」

 そう言った時、彼の下にあった森の少し開けた部分の土がボコボコと盛り上がりはじめ――次々にジークヴァルト……否、目の前の狼獣人と特徴を同じくする『アンデッド』達が姿を現した。

「落ち人を死なせたとか言う貴方の兄と、その落ち人が見当たらなかったのは残念でしたけど、貴方の両親は見せしめに晒されたまま集落にありましたからね。ご両親もいますよ?感動の再――――かはっ?」

 希美子が気付いた時には隣にジークヴァルトの姿は無く。

 よく喋っていた目の前の狼獣人の口に剣を突き刺していた。

 そのまま二人は地上へ落下して行く。

「ジーク!!」

『大丈夫よ、きみちゃん。安全を確保しつつ援護出来る位置に行くわ、掴まって』

 シロちゃんは希美子が自分の鬣に捕まったのを確認するとジークヴァルトを追った。

 希美子は先程から突然与えられた大量の情報に頭が混乱していた。

 ――ジークヴァルト・アードルング

 その名は、希美子さえジークヴァルトの口から聞いた事が無い。

 希美子はこの世界で姓を持っていると言う意味を詳しくは知らない。

 でも、ジベットやリリーに姓は無かった筈だ。もしかしたら名乗っていないだけと言う可能性もあるけれど。

『落ち人を死なせた貴方の兄』

 そう言われた時、ジークヴァルトは何も否定しなかった。

(ジークに……お兄さんがいたの……?)

 希美子はジークヴァルトと出会ったその時に言われた言葉がある。

『今すぐ俺に首を刎ねられて死ぬか、狼にブチ犯されるか、時間をかけてこの世界の魔力に蝕まれて野垂れ死ぬか、好きなのを選べ』

 あの男は『殺した』では無く、『死なせた』と言った。

 なぜ、どうして死なせてしまったのか。

 思えば希美子と完全獣化した姿で繋がる事をジークヴァルトは不可能と思っていた節がある。

 それでも受け入れると言った希美子に完全獣化してからも――

『無理だと思ったら枕に顔を埋めるか目を閉じるかしてろ、出来るだけ早く……は無理だが、寝てる間に終わらせる』

 どこまでもジークヴァルトは信じていなかった。

 ……希美子が完全獣化のジークヴァルトに激萌えして身体が動かない事にぶちギレるまでは。

(ジークの『お兄さん』の『落ち人』さんは……獣化したお兄さんを受け入れられなかったんだ……)

 希美子自身、自分がそこそこの特殊性癖だと言う自覚はある。

 獣人推しと言っても、中には受け入れがたいという人間も居るだろう。

 希美子はこの世界に来る前に女神様に確認された事を思い出す。

『……あなた……獣姦は、イケる……?』

 聞かれた時は何処までもノリが残念な女神様だと思っていたけれど、あの女神はこんな事も言っていたのだ。

『私、あの子には幸せになって欲しいのよ……』

 それは、ジークヴァルトの人生が決して幸せで無かった事を指す言葉に他ならない。

 その原因が『落ち人』にあったのだとしたら……?

 人族の街で獣人だと言う事を言わず『ジーク』という名前で冒険者をしていたジークヴァルト。

 そうだ、あの時なんで本名を隠しているのか希美子は聞いてない。

 先に隠している事を希美子に言ってなかった事に驚いてしまって……それも計算してジークヴァルトは希美子に何も言わなかったのだろうか。

 ジークヴァルトは群れの獣人に恨まれていたとあの男は言った。それが理由なのだろうか、群れの人間達に自分がジークヴァルトだと知られない為に、名前を変えて人族の冒険者として生きて来たのだろうか。

 希美子は上空から狼獣人のアンデッド達を見下ろした。

 あの中に、ジークヴァルトの両親がいると言う。

『貴方の両親は見せしめに晒されたまま集落にありましたからね。ご両親もいますよ?』

 見せしめに、晒されたと、あの男は言った。

 何故――

(……『落ち人』を、息子が死なせたから……?)

「――ゥッ!」

 希美子は受け入れがたい想像に吐き気を催した。

 希美子の考え過ぎかもしれない、でもそうかもしれない。

 この世界の人間達は「落ち人を優先する」と何度も聞いた、希美子達がここにいる事は異例中の異例なのだ。

『二日前、同族の完全獣化を感じました……そして私は確信したんです、貴方が生きていると!』

 隠していたのに、同族に気付かれる危険を冒して――それも成功しないかもしれないと思っていながら、何故完全獣化をした……?

 出会ったばかりの希美子を救う為……?

 彼の中で『落ち人』と言う存在は一体これまでどんなものだったろうと考える。

 希美子が現れた時、決して良い気持ちはしなかった筈だ。

 ――ああ、あの人は……どこまで……

 希美子の瞳に涙が浮かぶ。

「ジーク……ジークヴァルト……」

 その時、眼下に広がる景色が白い光に包まれた。