ジークヴァルト・アードルングは黒狼族の族長の息子として生を受けた。
厳しく厳格な父と優しい母、お人好しな兄。
そしてそんな家族に頼りきりで何かあれば直ぐに泣きついてくる群の獣人達。
狩に出たのに獲物が捕れなかった。
雨が続いて退屈で死にそうだ。
副族長の所の長男に雌がなびかない。
犬獣人の奴らに舐められた。
ジークヴァルトは幼いながら、何故父たちがあんな彼らに尽くさねばならないのかと疑問に思っていた。
すでに彼は群れそのものを客観的に見てるような冷めた子どもだった。
その日もジークヴァルトは群れの子どもとは遊ばず、一人で狩に出た帰り森の中で兄と遭遇した。
兄はジークヴァルトが知らない雌を組み敷いて口付けを交わしていた。
お人好しの兄があんな積極的な事をするものなのだなと、それだけ思うと興味を失ってそのまま帰路についた。
その日から、全ての歯車が狂うとは知らずに。
兄が口付けを交わしていた相手は『落ち人』と言うらしい。ジークヴァルトは『落ち人』が何かを知らなかったが、群れの役立たず共が随分と喜んでいた事だけは覚えている。
さすが女神セレスに愛された血筋だと、珍しくひたすらジークヴァルトの家族を持て囃した。
『落ち人』は幼いジークヴァルトの尻尾に興味があるらしく触ってこようとするのでジークヴァルトはひたすら逃げてこの日を終えた。
しかし次の日の朝、落ち人は塞ぎ込んで部屋から出て来なかった。
夜に兄が時空結界を張っていたから何があったかジークヴァルトにはわからない。
ただ、兄の部屋から
「動物とセックスできる訳ないじゃ無い、こんなの聞いてないわ……」
と、獣人のジークヴァルトに聞こるか聞こえないかの声でブツブツ言っているのだけが漏れてきた。
その日から『落ち人』に食事を運ぶのはジークヴァルトの役目になった。
他の獣人が近づくと恐慌状態になるので仕方が無かった。
ただ、兄だけは落ち人が寝付いた後に部屋へ行っているようだったが、何をしているのかはわからなかった。
三日も持たず、落ち人に異変が起きた。
落ち人が半狂乱で「痛い痛い」と叫びもがき苦しみだしたのだ。
食事を持って行こうとしていたジークヴァルトは追い出され、兄が時空結界を張った。
次にジークヴァルトが部屋に行った時、落ち人は生気のない目をしながら「もう嫌だ死にたい、楽に死なせて欲しい、殺してくれ」と兄に懇願していた。
しかし、兄はそれを受け入れなかった。
その時はじめてジークヴァルトは気付いた。
兄の目がすでに正体を失っていた事に。
落ち人に縋るようにしてただただ「愛している」と口にする兄の姿にジークヴァルトは薄ら寒いものを感じた。
愛していると言うのなら、何故望み通りにしてやらないのか。
こんなに苦しんでいる様をその瞳に映す事すらせずに、ただただ想いだけを口にする。
兄はそんな性格では無かった筈だ、 どこまでもお人好しで自分の事など顧みない人間だった筈だ。
ジークヴァルトはそれが良い事だとは思えなかったが、ソレが兄という雄だった。
その日から、落ち人が叫びながら半狂乱になって痛がる度に兄が時空結界を張る、その繰り返しだった。そして落ち人はその度に人間らしさを失っているようだった。
同じく兄も。
一週間が経った時のこと、時空結界が可笑しな歪みを見せて無くなった先に、首から血を流して倒れ込んでる兄と、その下で苦痛に顔を歪ませた落ち人が動かなくなっていた。
それを見たジークヴァルトの父は固く目を閉じ、母は泣き崩れた。
ジークヴァルトはそれから後の事をよく覚えていない。
ただ、必死に逃げた。
魔力が希薄になる為に群れの彼等にも索敵され辛い四足歩行型に変身して、幼い狼はひたすら森を駆けた。
途中、父の遠吠えが聞こえた気がした。
二度と答える事が出来ないであろうその声に、けれども答える訳にはいかない。
他でもない父がそれを望んでいないから。
――駆ける
――駆ける
――駆ける
――駆ける
森を抜け、谷を越え、草原をひた走る。
脚の感覚などとうに無い。
喉はカラカラで、口の中は己の血の味がする。
幼い狼の毛並みは既に酷いものだ。
やがてボロボロの子狼の目に人族の街が見えてきた。
丘の上から見下ろすその街は、色取り取りの屋根の家、それから花と緑に囲まれた美しいものだった。
子狼の瞳に映るその景色が薄っすらとぼやけていき、子狼は力尽きるようにその場で崩れ落ちた。
――――
――
「ちょ、ゴットハルト様っ危ないですって!」
「なんじゃちょっとくらい良いではないか、野生の子狼なんぞなかなか見れるもんじゃ無かろう?見よ、弱っておる。何か恐ろしいモノから逃げて来たのであろうよ、可哀想に……干し肉食うかな」
「見るからに弱ってる動物に干し肉やる奴がありますか!布に水を浸して水から――ってちょ!待ちなさい!おい、ジジイ!」
ジークヴァルトは騒がしく言い合う人の声で薄っすらと目が覚めた。
ひたりと水に濡れた布を口の端に当てられ、乾いた口の中に染み渡るように水分が広がって来た。
……変な味はしない、これはただの水だ。
そう判断すると、ジークヴァルトはゆっくりとその水分を飲み込んだ。
「おおっ!飲んだぞ!お主は本当に博識じゃの!」
「アンタが常識無さすぎるんですよ!あ、ちょっと!ゆっくり、ゆっくりですよ?!」
――うるせぇ……
ジークヴァルトはそう思いながらも、嫌な臭いのしないこの老人達が彼に与えるがまま水分を摂った。
「…………干し肉食うかの?」
「だから!まずは流動食にしてください!」
「なんじゃ?粥か?そんなもんこの場にある訳がなかろう?お主は常識がないのう……」
「果物を潰すとか色々方法はあるでしょうが!アンタ自分が何の加護持ってるかも忘れたんですか?!歳は取りたく無いもんですね!」
ジークヴァルトはこの五月蠅い人間達の姿を確認しようと思って瞼を開いてみたものの、何故かボヤけてよく見えない。
幼い狼は自分はどうしてしまったのだろうと少しだけ不安になった。
「ほれ、出来た。木苺の木じゃ」
「そのままやらないで下さい!スプーンで潰すとかして下さいよもう!」
そう言った男が何やら空間をゴソゴソしている。
少しすると、ジークヴァルトの口の端に今度は甘みと酸味のある液体が注がれる。
ジークヴァルトのぼうっとしていた頭が徐々にクリアになっていく、目も、少し見えるようになって来た気がする。
「……のう、子狼よ。これからお主に回復魔法をかけようと思うが、襲ったりはしないと約束してくれるかの?儂を襲ったりなんてした日にはお主がこの怖い男に殺されてしまうでの」
うつらとしたジークヴァルトの目を覗き見て老人らしき男がそう言うので、ジークヴァルトは瞼をゆっくりと閉じる事で合意を示した。
それに対して老人の瞳が僅かに見開かれる。
「お主、儂の言っている事が解るのか……」
しまった、とジークヴァルトは思ったが後の祭りだ。回復され次第ここから逃げ――
「なんと賢い子狼じゃ!気に入ったぞ!のう、バーデン!」
「え……あ、はい。そうですね……」
ようとしたが様子を見る事にした。
彼らの若干の嘘の臭いは、嫌なものではなかったから。
「のうお主、儂の街へ来てみないかの?きっと気にいるぞ?」
――――
――
ジークヴァルトは老人の街へ行った。
老人の屋敷の一角に息子達が小さい頃遊んでいたと言う小屋があり、その場所を『賢い子狼』に寝床として貸してくれた。
ジークヴァルトは人族の営みを知らなかったので、しばらくこの街に居着いて彼らを観察するのも良いと考えた。
ジークヴァルトは老人の魔力布を左脚に着けていれば街の中を自由に歩き回る事を許可された。
街の人間は小さな狼を誰かの飼い犬として認識していた様に思えたが『誰かの飼い犬』を虐げるような輩はこの街にいなかった。
「おー?ワンコロ、これ食うか?」
「アンタ、飼い犬に餌あげちゃダメだろう?」
「いいじゃねぇか、コイツ俺の料理好きみたいだからよ」
ベテランの冒険者パーティと思われる男はジークヴァルトを見るといつも自分の弁当を分け与えた。
「引退したら店を開くんだ、このレイアにな!その時は毎日来てもいいぞ!」
そう言って豪快に笑った。
「さあさあそこのダンナ!今日はモモンが美味しいよ、奥さんへの土産にどうだい?」
この女はいつも声音と臭いが噛み合わない、けれどひとしきり客と話した後はジークヴァルトに熟れた果物をくれた。
「美味いかい?そりゃ良かった、明日はバナットがそろそろだねぇ……また明日もおいで」
次の日、房で売るはずのバナットが何故か一本だけ残っていて、ジークヴァルトはそれを美味しく頂いた。
街の人間は皆優しく、心豊かな者ばかりだった。
それでも偶に、外から来た冒険者に絡まれる事もある。
「おい、なんで街中にこんな薄汚ぇ犬が放し飼いにされてんだ?」
そう言って物のついでの様に脚が振り上げたが――
「ぎゃっ?!」
「おっと、すまんの」
冒険者の振り上げた方とは別の膝の裏を、怖い顔のジジイが蹴り上げた。
「何しやが――ッ?!!」
「それはこっちの台詞だ、その犬っころはこの街の犬だ。貴様、儂らに喧嘩売っとるのか?」
「――ひっ?!」
ジジイの殺気に当てられて冒険者は泡を吹いて気を失った。
「お前さんもボーっとしとるな、あのくらい自分で避けられるようになれ」
言葉は乱暴なのにジークヴァルトを撫でるその手は気持ちよかった。
ジークヴァルトが街外れの丘の上へ足を運ぶと、そこにはいつも人族の小さな子ども達が沢山いる。
あの白い綺麗な建物に皆んな住んでいるのだろうか、ジークヴァルトはいつも子ども達の集団から外れて本を読んでいる綺麗な顔の少年に近づいた。
「今日も来たのかい?じゃあ何の勉強をしようか」
少年はジークヴァルトに文字の読み方を教えてくれた。はっきり言ってジークヴァルトは『コイツ頭大丈夫か?』とは思っていた。ぼっち拗らせ過ぎて犬に文字を教えるとか少し心配になる少年であった。
まあ、ジークヴァルトは文字が覚えられるのは助かるのだが。
こうして、ジークヴァルトは約一年の時間をこの街で過ごした。
家族以外の他人と言えば自分達で考える事もせず、思考停止した馬鹿どもしか知らなかったジークヴァルトだ。
しかし、この街で彼等以外の人間と言うものを初めて見た。
色々な人間が居るものだと思った。
子狼は群れ以外の世界を知らなかった。
これでは何故両親が死ななければならなかったのか、兄がどうして正体を失ったのかわからない。
小さな子狼は、もっといろんな人間を見てみたいと思った。
――――
――
子狼はあの老人と出会った丘で、一年間腕に巻き付けていた魔力布を彼に返した。
「まさかコレを返される日が来るとは……この街は気に入らなかったかの?」
子狼は老人の言葉に首を振る。
ただ、別れの意を伝えるつもりだった。
「なるほど、これは別れの儀式じゃな?」
コクリと首を縦に振った。
「ならば、コレは持っていってくれんかの。お主が大人になったら、お主だとわからないかもしれん。なに今生の別れのつもりか?それは認められんよ。またいつかこの街へ来て……儂がこの街を変わらず護っているか確認にくるのじゃ」
そう言ってジークヴァルトの鼻先に魔力布を押し付け咥えさせると、ジークヴァルトを一撫でして街へ戻っていった。
子狼は歩き出す、自分の知る――小さな世界以外の世界を見るために。