優香は目の前の惨状に悲鳴を上げる事すら叶わなかった。
茜の話を信じるならば、ここは精神世界という事になる。夢魔が最も力を発揮出来る場所だ。
茜は先ほど、優香にラウロを止めてくれと言っていた。
姿こそ昨日この精神世界で見た彼――お色気イケメンに戻ってはいるものの、無数の糸を敵に張り巡らせ、指先一つで敵の腕を落とすような『彼』を見たのははじめての事。
先程までの、ヤギのような大きな角や鋭く光る牙、ギラリと光る縦割れの瞳孔、それから赤みの強い肌――異形とも言える姿のラウロを、しかし優香は全く怖いとは思わなかった。
優香の顔色を窺いながら、それでも愛を囁き愛を請う姿を愛おしく感じる事はあっても恐ろしいなどとカケラも思わなかった優香。
しかし今、彼女は恐ろしいと思っている。
まるでそれが当たり前と言うように、異形とは言え人の形をした生き物の腕を、顔色一つ声音一つ変えずに指先一つで斬り落として見せた己の愛する人を。
優香は、恐ろしく感じたのだ。
「ね、怖いでしょ? 」
「ッ…… 」
自分の愛する相手に向けた感情を恥じて、それに蓋をしようとした優香。けれどもそれをするより前にあっけらかんと茜が言った。
「私もね、たまにエルサリオンが怖く感じる時があるよ。根本から全然違う何かがあるんだって感じる時がある」
そう、優香が感じたものもそうだ。
理解し合えないと本能が感じた時に生じる二次感情。
恐怖と――それから突然放り出されたような孤独感だ。
そして、その孤独にまた恐怖する。
「すっごく好きでさぁ、愛しちゃってんのに……参っちゃうよねぇ 」
泣いてるみたいな表情で優香に笑い掛ける美女に、どんな顔をしたらいいのかわからず優香は複雑な顔をして視線を逸らした。
「でもそれは彼らも同じだから。私たちの事、怖いって顔で見る時があるよ 」
優香は再び、異形の姿で優香を抱いた先程までのラウロの事を思い出す。
優香に恐れられる事を恐れていた、哀れな異形を。
――べちゃり
「ッ…… 」
今度は脚が落とされた。
「あんなやり方しなくても、私がエルサリオンのとこまで連れてってお仕置きするから。だから優香ちゃんはラウロを止めて」
優香ちゃんが怖がってるの、後で知った方がきっと辛い――最後の方は優香の耳には届かなかった。
精神世界に於いても、血が流れれば鉄の匂いがする。
ラウロの目の前には血溜まりが出来ていて、その匂いは湿気を帯びて充満していた。
ヒトの肉が切られる独特の生臭さは、なかなか初見には辛いものがある。
「ぅろさ…… 」
意を決して出した声はあまりにも情け無くて、優香は自分に腹立たしさを感じで歯を食いしばり頭を振った。
「――――ッ――ッ!! 」
こうしている間にもラウロは手を止めず、血の匂いは濃くなっていく。
不快な悲鳴は響き続ける。
「ッラウロさん! 」
「――――!!――ッ 」
声は届かない。
だったら――
優香はラウロに向かって駆け出した。
そんな優香の背中に茜がエールを送ったその時。
――べしゃっ!!
優香がコケた。
「う、嘘でしょ優香ちゃん?!!?! 」
「え……ッ優香?! 」
あんまりな出来事に茜が悲鳴のような声でツッコミを入れたので、ラウロが咄嗟に振り向いた。
その先で無様に顔から突っ伏して転がっている、バスローブ姿のツガイ。
怖かったのである、色々。震えもあった、普通の声が出せない程に。でもがんばって己を鼓舞しつつ、彼に走り寄ろうとした。
まあ、それまで硬直していた身体はそんな急な指令を果たせる筈もなく。
「優香! 」
走り寄ってきたラウロに助け起こされて、優香はもう情けないやら悲しいやら恥ずかしいやらラウロの声がいつもと同じあったかい声で嬉しいやら……自然、嗚咽が漏れる。
「うっ……うぅ――ッら、ラウロさ……ふうぅ…… 」
「え……おー……ヨシヨシヨシヨシ 」
さすが本物の百戦錬磨。一瞬怯んだ顔をしたがすぐにいつものマイペースな様子で優香の頭を撫ではじめた。
その優しさに、先程の倍の涙をポロポロポロポロ流す優香。
「し、知らない……ラウロさん、こ、怖くて……で、でもぉ、わたし、ラウロさんが好きで……ッ ……怖いけど一緒が良くて……うっ……うええぇぇぇえええッ 」
完全にキャパオーバーだった。
「うん……うん、ごめんね優香 」
「ラウロさんは悪くなくてぇぇええ 」
「うんうん、優香も悪くないからね 」
ラウロは撫でながら優香を引き寄せ、広い胸に抱く。優香の鳴き声がその中で篭り、腕の中で泣きじゃくる彼女を見ながら何処か嬉しげに眉を下げた。
「え、あの……いい感じのトコごめんね? 」
「何かな茜 」
「あの……夢魔の始祖? が、見当たらないんだけど……? 」
なかばパニックで泣きじゃくっている優香には聞こえないくらいの声で茜がラウロに耳打ちした。
「そんなの、俺と君が優香に気を取られた一瞬で逃げたよ。アレでも精神世界で最も長く過ごしてる魔人の一人だからね 」
「え…… 」
「うん? 」
「えええええええっ?!!?! 」