まだまだ痛い

 朝の爽やかな風が希美子の寝室に流れていた。

 今イスターレの気候は日本で言うところの秋口くらいである。

 希美子がこの世界に来た頃も別段暑いと感じなかったのだが、ジークヴァルトによるとこの国は春と秋が長いらしい。

 年間通して過ごしやすい気候という事だ。

 まあ、夏には日差しも強く暑くなるし、冬には雪だって降るらしいのだが、それも他国と比べても短い期間だという。

 落ち人が多いというのはこんな所にも影響しているらしかった。

 木の実や秋の花の香りを纏った、秋口のひんやりとした風の心地よさは、今の希美子にとって唯一の癒しであった。

「う……ぐぅぅううっ!ふ、二日めぇ…… 」

 たまに脂汗が出るほどしんどい。

 ジークヴァルトがマメに洗浄魔法を希美子と寝具にかけてくれるお陰で、その度に洗いたての布の感触とシャワーを浴びたばかりの気持ち良さで、ベッドの中はさながら桃源郷のようだと希美子は思っていた。

「この世界……やさしい……すき……」

 この世界に来る前なら、どんなにしんどくても汗を吸ったパジャマは着替えなければずっと気持ち悪いままだったし、あの日の最中にシーツを変える元気もそうそう出ない。

 仕事だってあった。

 薬を飲んで騙しだましで一日がんばった後は帰りに適当に夕飯を買って家に着いたら必要最低限の事だけして一人寝ていた。

 それを思えば今の自分はなんて優しい世界にいるのだろうか。

 希美子の台詞に、珍しく眉間の皺を薄くしたジークヴァルトが彼女の頭を撫でてくれた。

「確かこの時期に食べると良いという果物があったはずだ。少し出るが…… 」

「……ありがとう、ジークヴァルト。待ってる 」

 にへらっと力なく希美子がそう言うと、一階の玄関を出て行ったジークヴァルト。

 その気配が、道無き崖側に向かった気がした希美子はうずくまったままツッコミを入れていた。

(えー……確かに丘を飛び降りた方がアマーリアさんの屋台がある噴水広場まで早いけどえー……? )

 ――ぴちちちちっ

 寝室のバルコニーの手すりに居るのか、小鳥の鳴き声がする。

 ふわりとレースのカーテンが揺れて、新鮮な風が部屋に入れ替わるように入ってきた。

 その風の中に再びベリーのような花のような香りを感じて希美子は細く長い息を吐く。

 希美子はここで生活していくにあたり、少しずつ女神との会話を思い出していた。

 詳細な会話を思い出した訳ではない、ただそんなようなことを言っていたと、ポツリポツリと記憶が繋がり始めたのだ。

 前の世界の記憶は所々抜けてはいるものの、女神が言うには希美子の大切な人々が悲しむような事にはなっていないと言っていた気がする。

 この世界に来たばかりの希美子の記憶にあったのは、大きなクラクションの音だったので自分は事故で死んだのだと思っていた。希美子はずっと自分の死因を、事故だとか急死であるとかそんなふうに思っていたが、よくよく思い出せばそんな事はなく、ちゃんと歳をとって大往生した後に希美子の若い頃の姿と記憶を復元して魂を呼んだのだと言っていた事を、最近では思い出していた。

 普通の人が当たり前にする別れの後に、今の自分があるのだという。

 アントワールは魂の休息の為の世界である、と。そうあろうと作り育んできた世界なのだと女神は言っていたのだ。

 そんな都合の良い世界に、なぜ自分が? そんなことも聞いた気がする。

 この世界にジークヴァルトという、女神が幸せにしたいヒトが居て、地球の数ある魂から彼にふさわしい相手を選んだのだと言っていた。

(この場所に来れたのは、ジークヴァルトのおかげなんだなぁ…… )

 大事に……大切にしたい、愛しいひと。

「……愛してる 」

「……あ? 」

「えっ?! 痛ッ――…… 」

 バルコニーから声がして驚いた拍子で振り返って腹部に鈍痛が走った。

 ベッドの上で丸くなる希美子の腰へ掛け布団越しにジークヴァルトが手のひらを当てる。

「お前は…… 」

「みなまで言わないで…… 」

 呆れたジークヴァルトの声に、希美子が待ったをかけると代わりにため息が聞こえた。

「……少し飲んでおけ 」

「そうする…… 」

 言葉少なでも何のことかわかった希美子は素直に亜空間から例のポーションを取り出した。

「ジベットにもう少しマシな薬を作れと言ってきた 」

「何してるかな……よく効くよ……? 」

「……効いた所で用量制限のせいでこんな事になってるんだろうが 」

「でも、自分は無くても困らないポーション作ってくれるなんて、ジベットさん凄いなって思うよ。いわば恩人だし……ジーク、ジベットさんいじめて無いよね? 」

「……無い 」

「目線を逸らしちゃだめだって……うん、ジークも私の為に行ってくれたんだもんね。元気になったら私が何か持っていく、ありがとうジークヴァルト 」

 それだけ言うと、すうっと希美子は眠りに落ちた。

 顔色の悪いツガイの寝顔を見ながらジークヴァルトは考える。

 身体強化の中には、戦闘中傷付いても痛みを麻痺させるような魔法もある。

 ただ、生殖器に関しての研究は男女共にあまり進んでいないのだ。その魔法が女の身体にどんな影響を与えるのか、ひいては子が出来た時どんな影響が出るのかわからない。かと言って実験をするにも倫理観が発展し過ぎていて、研究は膠着状態なのだった。

 ジークヴァルトはベッドの中へ手を差し込んだ。

 いつか宿る命の為に、自分のツガイが痛みに耐えている。昨日触れたお腹に再び、祈るような気持ちで触れる。

 どうか少しでも我がツガイの苦しみが無くなりますように。

 ――その時、ジークヴァルトの癖が移ったのでは無いかと言うほど眉間に皺を寄せていた希美子の表情が、ふっと和らいだ。

 その表情に少し安心したジークヴァルトは、過去に想いを馳せる。

 自分の兄が死ななければならなかった理由を探す為、落ち人に関する資料を行く先々で盗み読みしていた冒険者時代。

 あの頃は関係ないと読み飛ばしたソレ。

 イスターレ王室図書館の記述にはこうあった。

『アントワール上 類を見ない程の魔力を備えた者へ落ち人が使われし時 彼の者がツガイである運命を受け入れんとするならば その魔力 女神セレスへと還る運命となりけり その身に刻まれた時 は無に還らん 』

 希美子がある程度、魔力を使うことに慣れた頃、もう一度読みに行くか――ジークヴァルトはそんなふうに軽く決めた。

 まだまだ希美子に教える事はたくさんあるのだ。

 いざと言う時の転移魔法はもちろん、身の守り方、諸々の魔法。

 何よりも、ジークヴァルトの落ち人になったが為に手にしてしまった膨大な魔力の扱い方を、その制御の方法を知っておかなければならないのだ。

 レイアが国の宝石たるその真価を発揮する、この実りの秋。

 風に運ばれてくる木の実の香りに、ジークヴァルトは、フッと微笑んだ。

 「希美子、食べられるか? 」

 そう言って、運ばれてきた香りと同じ匂いの果物を取り出して希美子に見せた。

 「さっき言ってた果物? ……ん、食べたい」

 希美子の言葉を受けて、ジークヴァルトは亜空間魔法から小ぶりのナイフを取り出すと果物の皮をするすると剥きはじめた。